飛行機で花巻空港に到着。その後、釜石線のローカル電車に乗って、遠野に向かいました。
遠野は岩手の内陸部にあります。陸前高田や大槌、釜石など被災した沿岸の地域と内陸を結ぶ七つの街道が交わる交通の要所です。
被災した沿岸地域は壊滅状態であったため、後方支援はこの遠野という場所に集約され、物資や支援する人や団体そして自衛隊も遠野を拠点としていました。
はじめて会う人へのプレゼンテーション。
何度も練り直してプレゼンの練習をして準備万全で、NPOの事務所に向かいました。
しかし、現場に到着してみると、そこは戦場のようなありさまでした。
壁一面に大きな地図が張り出され、
被災地から泥だらけの長靴にヘルメット姿で戻ってきた人が
次々と悲壮な声で報告を重ねていました。
「今日は、〇〇地区で、個人宅に被災している人がいることを発見。食料が届いていません」
「○○地区がかなり孤立しているようで、物資の供給ルートに入っていません。道が塞がれているのでかなり遠回りをしないといけないので、凄く時間がかかります」
「△△地区の奥に、被災している人が集まっている民家がある模様。道が塞がれてたどり着きませんでした」
戻ってきた人たちが報告し、地図の上にどこに何人避難しているのか、何が不足しているのか、道路の状態がどうなっているのか次々と書き加えていました。
当時、ニュースでは避難所生活の不便な生活や、同じ食料品ばかりが届き不満があるなどといったことが報道されていました。
しかし、津波の直接被害がなかった個人宅に身を寄せていた人たちについての情報は把握されていませんでした。
ライフラインは止まっていたにもかかわらず、「津波の直接的な被害を受けず家がある」ということで、支援物資をもらいに行くこともできないたくさんの人たちが存在し、困窮していました。
しかも、エリアが広いためどこに何人いるのかがわからず、道路も寸断されていたのです。
そこでこちらのNPOが中心となり、支援物資が届いていない地域を探し出して支援活動をしていたのでした。
生死を分けるような状態が、発災から一か月も経っているのにここでは続いていたのです。
私は、殺伐とした事務所に圧倒されながらも、
「せっかく東北に来たのだから、自分の考えやプランをとにかく伝えねば」と焦っていました。
そして、NPO法人の代表の菊池氏に熱く語りました。
「わかりました」
確かに、話は聞いてもらえました。
ですが、私はプレゼン資料を渡すことしかできませんでした。
(のちに本人から聞いた話では、私と会ったことすら覚えていないとのこと)
なにひとつ、動かなかった。動かせなかったのです。
翌日、被災地のボランティアに参加する機会をいただきました。
4月中旬は県外のボランティア受け入れはまだ行われておらず、
特別に地元の人に混じって参加させてもらうことができました。
地元の人と一緒に事前に説明を受け、長靴を借りバスに乗り込み、被災地の大槌町に一時間以上かけて向かいました。
そこで見たものは、阪神淡路大震災とは比べ物にならないほど、ひどい景色でした。
津波の破壊力はすさまじく、街並みは痕跡もなくぐちゃぐちゃにつぶされた家や建物のがれきの山がどこまでも続いていました。
大型の船がビルの上に乗っかり、電柱は曲がり家の屋根がひっくり返っていました。
ニュースで見ていたものとは、全く違う、表現できないほどひどい風景が、目の前に広がっていました。
物資を届けるために、がれきが撤去された幹線道路をかろうじてトラックや自衛隊が行き交っていました。
酷すぎて、写真を撮ることもはばかられました。
ここに来るべきではなかったかもしれない。
私は軽率だったのだろうか、
後悔が脳裏をよぎりました。
参加したボランティアは「足湯」というもので
避難所の人たちに、温かなお湯で足を洗って優しくマッサージをするというものでした。
お風呂にもなかなか入れない環境でしたので、温かなお湯に足をつけることで身体があたたまり、心もほぐす効果があるといわれています。
お湯で温まった足のマッサージを続けていると、初対面にも関わらず震災当日のことをポツポツと話す方もおられました。
「自分はどうやって津波から逃げて助かったのか」
「私の後ろを走ってきた人は、間に合わなかった」と涙ぐみながら語ってくれた人。
「避難所での共同生活に疲れたこと。でも生きているから、私たちは幸せだ」と伝えてくれた人。
全員が心に、うかがい知ることのできない深く大きな傷を負っていました。
「道路すらまともに通っていない状態で、復興までどれくらい時間がかかるのだろう」
この人たちが心穏やかに生活できるようになるには、はてしなく長い時間が必要になるだろうということだけは理解することができました。
その後、別のネットワークを頼りに、岩手県から宮城県に移動しました。
何人ものツテを頼り、とにかく人を紹介してもらい、私の考えを理解してくれそうな人を探しました。
しかし、私の考えなど、誰も理解してくれませんでした。
何も収穫とよべるものはありませんでした。
それどころか
「君は、被災者に仕事をさせる気か!!」と
叱責の言葉すら、浴びせられました。
私が必要だと感じていたことは、間違っていたのか。
仙台から真夜中に出発するバスに乗るために
雪がちらつくバス停で、凍えながら半べそをかきながら長距離バスの到着をまちました。
脳裏に惨い被災地の光景がよみがえってきて、無力感に包まれました。
だけど・・・やっぱり
きっとこの取り組みは必要だと思う。
復興に時間がかかればかかるほど、人々が震災以外に目を向けて心を穏やかにできるものが必要になるはず。
諦めきれない思いだけを抱えて、長距離バスで帰路につきました。